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コーギーとお昼寝

市町村・鉄道・企業・スポーツチーム擬人化よみものサイト、オンラインブクマはご遠慮ください。

そりゃあ、事情ってものがありまして

「大宮、これよろしゅう頼む。わしはよだきぃので寝る」
「ちょいと太田の旦那よ、そいつぁ無茶振りって奴じゃないですかい?」
「眠いものは眠い、やからお前に任せた」
「・・・・・・・・太田はほっといていいよ」
「ちょっと日立の旦那もそういってあっしに押し付けようって魂胆じゃねぇのかい?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そんな訳無いでしょ」
「その長すぎる三点リーダーはなんですかい?」
「じゃあ手伝いますよ。」
「おお、高萩の旦那の手伝いたぁ助かるねぇ」
「あのー」
「大子、どうかした?」
「どうして今日日曜日なのに皆さんうちで仕事なさるんですか?」



「「「「「家だと気が散るから」」」」」

おわり





常陸太田と常陸大宮の書き分け練習もかねて書いてみた。
北茨城はあえて放置してあります。

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弐湖の国の窓口です

6月17日。
スカイツリーの足元とかっぱ橋に新たな店がオープンした。
行方市のアンテナショップ・行方シティギャラリーである。
「新しくできました行方シティギャラリーよろしくお願いしまーす」
「行方市殿、売れ行きはいかがだい?」
「ああ、スカイツリーさん。売れ行きはまあ、そこそこなのですよ」
「ここいらには商店街も多いから商店街にも多少客が行っちゃうんだろうねぇ、それにうち(東武)としても店が増えることで地域活性化するなら万々歳だよ。
八百屋はこの辺無いし」
「・・・・・うちは八百屋じゃないよ?」




おわり







データ放送の市のアンテナショップ開業のニュース記事で「このあたりは八百屋が無かったから助かる」と書いてあったのに泣いた・・・・・・

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まるでバベルの塔のように

「あー・・・・・・眠い」
スカイツリーは愚痴を零しながら、駅の休憩室にある一番いいソファーを占領した。
もちろん占領するといっても猫一匹なので人が座ることは出来るが。
「だらしねぇよ、スカイツリー。ちゃんと起きて」
「お断りだ、どうせあたしゃ最初から東武の客寄せパンダなんだから」

まるでバベルの塔のように

2003年
地上アナログ放送終了が決定したことに伴い、民放5局によって新タワー建設計画が始まった。
このときテレビ電波を流す東京タワーは、周辺の高層ビルによって電波障害を起こし始めたことがその理由の一つだった。
このとき名乗りを上げた地域は15あって、そのうちの一つが墨田区だった。
墨田区はこちらに話を振り向けた。
「というわけで、どうよ。空き地になってる押上の貨物ヤード使ってさ」
「んー・・・・まあ、面白そうだぃね。押上近辺に客を呼ぶものがでぎるのはマイナスにはなんねぇ」
こうして600億円投資しての新タワー建設計画が持ち上がり、さいたまとの競合の末に2006年押上にタワーを建設することが決定した。
近隣の再開発を始め、タワー運営会社として現在のスカイツリーが生まれた。
それ以降の流れはみんなが知ってのとおり。

*              *

「・・・・・・って経緯があるんだから少しは甘やかしとくれよ」
「まだ開業して一月しか経ってねぇのに」
「しょうがないだろ!墨田区に届く苦情のほとんどはスカイツリーの迷惑観光客だから対策練るにしてもうちが絡んで来るんだよ」
「でもスカイツリーは猫でしょ」
「一応猫でも聞いといたほうがいいんだよ、それに」
「それに?」

「腐っても東武グループとして気ぃ張るから疲れるんだよ」

そうため息をついて寝たスカイツリーに、やれやれと頭をなでた。



おわり




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幸せになって欲しくて3

1992年には第一種鉄道事業者免許を取得、二年後には秋葉原での起工式が開かれた。
それはその起工式の日のこと。

幸せになって欲しくて

起工式には関係者が多く集まり、その内には接続する予定の私鉄路線も多くいた。
JRからは代表として水戸線さんがいた。
『新線は水戸線さん嫌い?』
『・・・・・・・・あの人は接続しないし、悪い人ではないから』
『何だかんだいって世話を焼いてくださるものね、常総さん経由だけど』
守谷で常総さんに会うたびにいつも水戸線さんから預かった煮物やら野菜やらを貰う。
それが現在でも響いているのか、JRでも水戸線さんはあまり嫌っている様子がない。
「あ、いたいた」
「・・・・・・どちらさんですか」
「オレ?ぶっちゃけ接続はないんだけど、上野から成田まで繋いでる京成本線でっす☆」
「接続ないのに来たんですか、わざわざ」
「なにその酔狂みたいな口ぶり~、まあ浅草で会うかも(ry
その言葉を遮ったのは鮮やかなまでの回し蹴りだった。
回し蹴りの張本人が誰か、それは言うまでもなく新線と接続する予定のあり京成と因縁のある彼しかいない。
「・・・・・ちっ、今日こそお前の息の根止めてやろうと思ったのにな。とゆうか帰れ」
「伊勢崎ちゃんよ、挨拶もなく回し蹴りは鬼じゃね?つか酷くね?!まずここ式典の場!」
「貴様にやる挨拶なんて不要だ、とゆうか船橋に帰れ」
『・・・・・・懐かしい』
『知ってるの?』
『私の元夫と、元婚約者というところかしらね』
『なにそのドロドロの構図』
ギャーギャーと騒ぎ合う声ではあっても、大好きな人たちの声を何十年ぶり書き聞いた。
それだけで泣けてしまう。
結局、東武野田線がやって来るまで喧嘩はしばらく続いた。

*              *

その後開業の延長が決まり、準備を進めていく中で過去を払拭するように新たな名前を与えられた。
『TX』
『・・・・・・まだその名前慣れないや』
『本当に、過去の記憶を捨てたいの?』
『うん』
完成検査が終了して開業後を一ヵ月後に控え、そんな折に[過去の記憶を預かって欲しい]といわれた。
『筑波、どうせならまっさらな状態で走り始めたいんだ』
私はその望みを聞くことにした。
幸せになって欲しい、それ以上の望みは何もない。






『そんなことがあったんだ』
『ええ』
私は彼に笑いかける。
まっさらな状態で走り始めて、8年の月日を経て私は彼に記憶を返した。
記憶と体の乖離はかなりの負担を背負うことになるため、身体的負担の軽減を目的として私は彼の元へと戻った。
『でもね、一つだけ変わらないことがあるわ』
『なに?』
『あなたが幸せであることよ』


おわり

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幸せになって欲しくて2

8月中旬の、残暑厳しい日だった。
「新線、これからよろしく頼むな」
「っても運営がJRなだけで母体は第三セクターになるから厳密にはうちに入るってのとは違うことになるんじゃないのか?」
「武蔵野」
常磐線・水戸線・水郡線の水戸支社路線と、接続路線となる総武線・山手線・京浜東北線・武蔵野線という国有鉄道路線の一通り集合した集まりの中に常磐新線はいた。
その中には私も良く知らない路線(特に当時開業から10年ほどしか経っていなかった武蔵野線)もいた。
「はい」
(接続路線との顔合わせまで・・・・・)
自分のときは接続路線との顔合わせは上野公園駅(現京成上野駅)開業日まで一度もなかった。
同じ会社に所属する接続路線となればそれよりもはるかに前に顔合わせを済ませる。
だからこのままJRとして彼は生きていくものだと、私はずっと思っていた。

幸せになって欲しくて

1989年
新たなフレーム案を読んだとき、新線は何も言わなかった。
『・・・・・・国は見捨てたんだ』
『新線、それでもまだつくば市や県がが見捨てていない、諦めちゃ『どうして!採算が取れないのはしょうがないとして、生み出したのは向こうの勝手なのに!主はどうして見捨てた!』
それは怒りだった。
第3セクターが母体だとしても運営がJRであることは疑いもしなかった。
そのほうが安定した経営も考えられ、運行知識の蓄積などのメリットも多い。
言葉こそ濁してあれど採算の都合で見捨てられた、いや見捨てようとしてることは認めざる得ない事実だった。

*          *

翌年には第三セクターとしての開業が確定し、「常磐新線」から「常磐線第3セクター」と変化して2000年の開業準備を目指していた。
その間にJRははっきりとこの事業から手を引くことを決め、91年には正式に通知された。
『ふざけてるよ、なら最初から作るなんて言い出さなければいいのに』
『それは極論よ、そもそも言い出したのは県じゃない』
『あの時わざわざ東京に呼び出して彼らに会う必要なんかなかった!
JRの一部として開業するから会う、そう思ったでしょう?』
そのとおりだ。
第3セクターを母体としJRが運営する新路線、私も彼もそうだと思い込んでいたのだ。
だから本来開業直前でも十分事足りる接続路線との顔合わせまで行われたのだと思っていた。
『・・・・・・筑波、いま色んなものがすごく憎い』
その気持ちを引きずりながらも開業への準備は刻々と進んでいた。






つづく

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