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コーギーとお昼寝

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幸せになって欲しくて2

8月中旬の、残暑厳しい日だった。
「新線、これからよろしく頼むな」
「っても運営がJRなだけで母体は第三セクターになるから厳密にはうちに入るってのとは違うことになるんじゃないのか?」
「武蔵野」
常磐線・水戸線・水郡線の水戸支社路線と、接続路線となる総武線・山手線・京浜東北線・武蔵野線という国有鉄道路線の一通り集合した集まりの中に常磐新線はいた。
その中には私も良く知らない路線(特に当時開業から10年ほどしか経っていなかった武蔵野線)もいた。
「はい」
(接続路線との顔合わせまで・・・・・)
自分のときは接続路線との顔合わせは上野公園駅(現京成上野駅)開業日まで一度もなかった。
同じ会社に所属する接続路線となればそれよりもはるかに前に顔合わせを済ませる。
だからこのままJRとして彼は生きていくものだと、私はずっと思っていた。

幸せになって欲しくて

1989年
新たなフレーム案を読んだとき、新線は何も言わなかった。
『・・・・・・国は見捨てたんだ』
『新線、それでもまだつくば市や県がが見捨てていない、諦めちゃ『どうして!採算が取れないのはしょうがないとして、生み出したのは向こうの勝手なのに!主はどうして見捨てた!』
それは怒りだった。
第3セクターが母体だとしても運営がJRであることは疑いもしなかった。
そのほうが安定した経営も考えられ、運行知識の蓄積などのメリットも多い。
言葉こそ濁してあれど採算の都合で見捨てられた、いや見捨てようとしてることは認めざる得ない事実だった。

*          *

翌年には第三セクターとしての開業が確定し、「常磐新線」から「常磐線第3セクター」と変化して2000年の開業準備を目指していた。
その間にJRははっきりとこの事業から手を引くことを決め、91年には正式に通知された。
『ふざけてるよ、なら最初から作るなんて言い出さなければいいのに』
『それは極論よ、そもそも言い出したのは県じゃない』
『あの時わざわざ東京に呼び出して彼らに会う必要なんかなかった!
JRの一部として開業するから会う、そう思ったでしょう?』
そのとおりだ。
第3セクターを母体としJRが運営する新路線、私も彼もそうだと思い込んでいたのだ。
だから本来開業直前でも十分事足りる接続路線との顔合わせまで行われたのだと思っていた。
『・・・・・・筑波、いま色んなものがすごく憎い』
その気持ちを引きずりながらも開業への準備は刻々と進んでいた。






つづく

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