昭和30年代。
陸の孤島とさげすまれ、近所には何にも無かった頃の鹿島のお話。
「・・・・・・平和だね」
木の葉の隙間から太陽が零れ、神の懐を暖める。
「鹿島!」
「神栖、どうしたのさ」
忙しなくこちらに駆け寄ってきた隣人・神栖町(当時)が告げたのは奇妙な言葉だった。
「水戸がうちの開発やるって!」
昭和35年4月 茨城県「鹿島灘沿岸地域総合開発の構想」作成
それがこの門前町に降り注ぐ光と影の始まり。
鹿島に落ちた光と影鹿島灘周辺は古来から利根川と霞ヶ浦と海に挟まれて交通の利に乏しく、農業に適さない砂丘地帯だったため半農半漁で人々は生きてきた。
ところが海と湖に挟まれることで工業用水を集めやすく、東京から100キロ圏内という工業に適した地域だったことからこの計画が誕生した。
投資効果の高い土地として国が東三河・東駿河などとともに『工業整備特別地域』なんて指定まで貰った。
「まさか国家プロジェクトの一部になるとはなぁ・・・・・・」
「僕個人としてはどうでもいいけどね」
「なんでだよ」
「食うに困らないから」
「鹿島って欲無いよな」
これで神栖の町が人口増に転じてくれればな、と神栖が呟く。
開発スローガンである『貧困からの解放』という言葉は喜ばしいものではあるけれど、これが良きに転ずるかどうかが分からないだけだ。
「神の懐の町だからね」
* *
昭和41年
神宮の出入り口の前に一匹の猫が鎮座していた。
捨て猫にしてはけづやのよい茶色の猫は、じっとこちらを見やっていた。
「おい」
「・・・・・猫が喋った」
「自分が鹿島やな?茨城県鹿島市」
「そう、だけど」
「わいは住友金属や」
日本の財閥の一つである住友財閥の流れを受け継ぐ金属加工会社の名前を名乗るその猫を、ただ見やるだけだった。
つづく
鹿島が現在のような住金の街になるまでのお話。
なんか無性に鹿行書きたかったんですよね、ふっしぎー。
あと神栖はここでだいぶ街が変化していくんですが反映されるといいな。
日立もそうですが、会社によって街そのものの地域的性格の変化が見られる例は多いですよね。