春の横浜市鶴見区の海は静かに凪いでいた。
工業都市のふ頭の景色は待ち合わせ中の彼女にとって故郷の景色そのものである。
「京浜、待たせたな」
川崎の運河を眺められるベンチに魔法瓶を片手に待つ黄色い瞳に優しげな雰囲気を纏う彼女こそ、日本鋼管京浜製鉄所扇島地区であった。
軽く会釈を交わして彼女の横に腰を下ろすと温かなほうじ茶を差し出してくる。
「すまんな」
いえいえという風に遠慮がちに首を振るが、こういう時のお茶はありがたい。
軽くひと息をついてから本来の目的を口に出した。
「今回は仕事の話をしに来たんだったな、単刀直入に言ってもいいか?」
こくりと頷いた彼女にゆっくりと今日の目的を口にした。
「……うちで保有してるレール製造設備をお前さんのところで使って欲しい、譲渡先はお前さんでも福山でもそれ以外の誰かでもええ」
彼女はゆっくりとノートを手に取り、筆談で訊ねてきた。
『それは、今度の合併のことに絡みます?』
「当然じゃろう、ほかはめどがついたがレールのめどか中々つかんくてなあ。なあに、すぐに決断しろとは言わんさ。関東三社(※富士製鉄・八幡製鉄・日本鋼管のことを指す)のよしみで引き受けて貰えんか」
『相談してみないと分かりませんよ、上の人に話は?』
「今頃しとるはずじゃぞ」
ふいに京浜が目を閉じ、すうっとその身体が一瞬顔のない人形のようになり、先ほどの彼女と同じ淡い黄色の瞳の小ざっぱりとした三十路男に変化する。
京浜に時折起こる人格入れ替わり現象ではあるがこうしてじかに見るのは久しぶりな気がした。
「……釜石、今のはさすがに無理があるだろうよ」
「なんだ水江か、久しぶりだな。渡田は元気か?」
「今は池上だよ!あと渡田は寝てる!」
「そうかそうか、今のは無理があるって言うのはレール製造の話か?」
「今の文脈でそれ以外に何があるんだよ……ほんとこのじーさんすっとぼけやがって……」
ほうじ茶を勢いよく飲み干すと、深い深い溜息を吐いてこちらを見た。
「日本鋼管は、鉄鋼は平和産業と結びつくべきという今泉嘉一郎・白石元治郎の信念によって生まれた独立独歩の会社だ」
「今泉さんは日本鋼管の前は八幡のとこにおったけどな」
「そう言う茶々は良い、そりゃあ関東三社のよしみとは言えうちの独立性を危ぶむようなことはできない」
「どうしてもか」
「うちは死ぬまで民営企業だ、官営の血は一滴たりとも入れるつもりはない」
その明確な拒絶に思わずやれやれというため息が漏れた。
昔からそうだったが水江の言う≪民営プライド≫という奴ははっきり言って分かりかねるもので、それはたぶん生まれの違いとしか言いようのないものだった。
「この合併は既定路線じゃ、国も承諾しとる。最後には扇島にうんと言わせるさ」
「だいたい、この合併に関してはまだ問題が残ってるだろう」
「知らんのか?ブリキは水島が製造を開始する予定が決まったし、鋳物銑は八幡のとこにある東田第6高炉を止めるつもりでいる」
「……葺合にまで圧力掛けたのか」
「わしはかけとらんさ」
表現しがたいような顔でこちらを睨みつける水江にほうじ茶のカップを返す。
「悪いがこのあとまだ用事があってな、ほうじ茶美味かったぞ」
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