東海精機×本田技研って呟いたら「書きたいときが書き時なんやで」という悪魔のささやきを受けて書いたもの。
ずっと存在は知りながら手を伸ばさずにいた存在がいる。
自分宛てに届いた一通の葬儀と通夜を伝える手紙の送り主は「本田技研」とのみ記されていて、その名前にわずかに眉をしかめながらもそれが生みの父の葬儀であるのならば忌避する理由などなかった。
トヨタさん兄弟から預かった香典袋を片手に訪れた抹香くさい寺の片隅。
喪主とその親族の傍らに自分と同じくらいの背丈の青年がいた。
ちらりと覗いた黒髪の隙間から普通の人間にはありえないきっぱりとした赤い瞳が見えた。
(あれが本田技研か)
その横にいる家族の姿も俺の記憶よりだいぶ変わっていて時間の残酷さを告げられた気分だった。
父やその家族と最後に会ったのはあの戦争が終わる前、トヨタさんと共に暮らすようにと父が俺に告げたあの日以来だから当然かもしれない。
ふっとこちらに赤い瞳が向けられて、一瞬驚いたように視線が固まった。
(……顏も知らずに俺を葬儀に呼んだのか)
いや、それも仕方のない事だろう。
同じ人を創業者に持っていてもあくまで今の俺は豊田織機傘下の企業であり、豊田織機の実弟である豊田自動車は商売敵だ。存在こそ認知してても顔を知らなくても無理はないだろう。
お焼香を済ませ、早々に寺を出ようとした時だった。
「待って、」
俺の喪服の裾を掴んだのはやはりあの赤い瞳をした弟だった。
「……あんたが、東海精機だよね」
断定するように告げられた台詞に思わず「そうだけど」と返してしまう。
「やっぱり。目の色以外全部同じだもんね」
にっと笑うその表情は俺の記憶の中にある父によく似ていて、自分の中にある父の面影を僅かに感じていた。
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天竜の隠れ家に招待されたのは父の葬儀から2年ほど過ぎたある初春の日だった。
新しく買ったという小さな家の鍵と地図を突然送ってよこしてきて、一度来てくれとだけ書かれていた。
天竜川の程近くの木立の奥に隠れるようにあるガレージつきの木造の平屋はほこり臭く、しかしそれが妙に懐かしい心地がした。
とりあえず風通しをしようと窓を開けるとバイクのエンジン音が聞えて来て、しばらくすると玄関の引き戸が開いた。
「来てたんだ」
「……来いって言ったのはそっちじゃないか」
「まあそうだけどさ。すぐ着たなって」
「お前に比べれば暇だからな」
「そりゃあ世界のホンダですから」
ホンダは自慢げな口ぶりでそう言いながら風通しに窓を開け放った。
ついでにバイクやってるほうのヤマハに分けて貰ったという蜜柑を半分渡された。
「でも、なんでここに呼んだんだ?」
「きょーだいのいる生活をしてみたかったから」
言われてみればわかるようないまいち理解しがたいような理由をあげられる。
「別にあんたもいちいち来るの大変だろうし、別荘だと思ってくれて良いから」
別荘という言葉の響きにしてはずいぶん質素な建物だが建物自体は悪くない。
(……まあ、いいか)
結局、俺も兄弟のいる生活に興味はあったのだ。
天竜の家での生活は思ったよりも悪くなかった。
一人で静かになりたいときにはあの天竜の家で寝ていれば気持ちが安らいだし、天竜の家に思い出したようにやってくるホンダの土産話を聞くのも悪気はしなかった。
やがて天竜の家はホンダとの秘密基地のような色合いを帯び始め、仕事や雑事から離れて二人でぼんやりするための場所になった。
この時から俺たちの距離感の歯車はあの時から静かに狂いだしていた。
世界から隔絶されたような家で、互いの肌に触れるようになったのは、口づけを交わすようになったのは、肉欲を吐きだし合うようになったのは、いつからだっただろうか。
あの赤い瞳が愛欲に染まる瞬間を、知っている。
奔流に惑わされて震える声で「とうかい」と呼ぶ声を知っている。
「こんな風になるなんてなあ、」
そして、今日も俺はひっそりとこの天竜の家であの赤い瞳の帰還を待っている。