「結城です」
作者です、お話のほうの登場は久しぶりですね。
「基本的にあなたサボり魔ですからね」今回は作者の暇つぶし的な感じで『鉄道唱歌』の話でもしようかと思いまして。
「・・・・・暇つぶしって」
鉄道唱歌というのはたぶん世界でも3本の指に入るレベルで長い歌曲でして、7曲と399番まで存在します。ギリシャ国歌の「自由への賛歌」が158番までですから3倍ぐらいです。
「まあ番外編みたいな曲も山ほどありますけどね」
今回はその中から茨城県内とその周辺を軸にご紹介してみようと思います。
六 末は銚子の海に入る 板東太郎の名も高し
みよや白帆の絶間なく のぼればくだる賑(にぎわい)をまず一番県内が最初に出てくるのはこの部分ですね。
「利根川を前の部分で渡ってましたよね」
だから利根川辺りだと思うんですけど自分としては銚子の海の下りがちょっと解せない感じです。上野から現在の宇都宮線で北上してるので海なんて無いのにな・・・・という感じです。情報希望。
七 次に来るは古河間々田 両手ひろげて我汽車を
万歳と呼ぶ子供あり おもへば今日は日曜かこれは分かりやすく古河ですね。
「おもへば今日は~の下りですが、土曜日が休日に認定されたのは平成に入ってからですから妥当なところでしょうか」万歳というのは天皇陛下万歳、でいいんですかね。明治期の曲ですし。
八 小山をおりて右にゆく 水戸と友部の線路には
紬(つむぎ)産地の結城あり 桜名所の岩瀬あり「水戸線のくだりですかね」
小山駅の乗り入れのことですかね、9番で両毛線について触れられているので群馬の地名が出てるので乗り換え案内的な意味合いもあるんでしょう。
「でもなんで水戸と友部なんですかね、水戸線は小山水戸部間ですし」
確かに・・・音数の問題かなと思いますけど、この歌はぜんぶ75調で統一されてるし歌曲ですからね。
ここから栃木を抜けて仙台、そして青森まで到達してから常磐線沿線に参ります。
四四 道は磐城をつらぬきて 常陸にかかる磐城線(いわきせん)
ながめはてなき海原は 亜米利加までやつづくらん>磐城線、いまの常磐線ですね。もともと常磐線は複数の路線を統合しているのでこの時代の表記に合わせて「磐城線」という表現なんでしょう。
五三 あひて別れて別れては またあふ海と磯の松
磯原すぎて高萩に 仮(か)るや旅寝の高枕これは分かりやすく北茨城と高萩です。
「磯原は北茨城の中心駅ですしね」
五四 助川さして潮あびに ゆけや下孫孫も子も
駅夫の声におどろけば いつしか水戸は来りたり助川というのは今の日立市内ですね、当時は日立鉱山がメインでした。
「しかし随分と省略されてますねぇ」
一駅一番だと間にあわないんでしょう、東海道線は2つに分けてあるほどですし。
五五 三家の中の勤王の その名知られし水戸の藩
わするな義公が撰(えら)びたる 大日本史のその功(いさお)五六 文武の道を弘(ひろ)めたる 弘道館の跡とへば
のこる千本(ちもと)の梅が香は 雪の下よりにほふなり水戸に到着して水戸の歴史に対する部分ですね。
「大日本史編纂と弘道館ですか」
これも時代背景的なものかなと思いますよ、明治に入って大日本史の編纂が終わり、黄門様の諸国漫遊が庶民に広く知られるようになった頃ですし。五七 つれだつ旅の友部より わかるる道は小山線
石岡よりは歌によむ 志筑(しづく)の田井も程ちかし
これは・・・・水戸線と常磐線の境目でいいんですかね。
「おそらくは」
五八 間もなく来る土浦の 岸を浸せる水海(みずうみ)は
霞ヶ浦の名も広く 汽船の笛の音たえずこれも分かりやすく土浦ですね。
「戦争中の話になりますが、土浦事故というのがありましたね」
・・・・・それはいったんやめにしよう。重すぎる。
土浦事故についてはおいおい書く機会もあるかと思いますのでその時に。
五九 雲井の空に耳二つ 立てたる駒の如くにて
みゆる高嶺は男体と 女体そびゆる筑波山六〇 峰にのぼれば地図一つ ひろげし如く見えわたる
常陸の国のここかしこ 利根のながれの末までも
これでやっと茨城県内を出て千葉を通り抜けて上野に戻ります。
「長い歌ですよねえ・・・・・」
私も痛感しました、正直鉄道唱歌なめてた。