深い深い霧が釜石の町全体を包んでいた。
初夏の釜石を象徴するやませと呼ばれる海からの霧だ。
(……肌寒いな)
寝間着に着ていた甚平の上に近くにあった羽織をして寝室から台所に出て、いつものようにお茶の準備をする。
朝茶癖は何時からか染みついていたかまともに覚えてはいないが、これをしないと朝が来た気がしないのも事実だ。
やかんでお湯を沸かし、急須に茶葉を詰めてお湯を注いで、湯呑に移して飲む。
シンプルな動作の積み重ねを間違えずに行う、そうしなければ大量生産は実現されない。
大量生産の象徴のような自分だからこういう事を考えてしまうのか、案外みんな同じようなことを考えているのか。
湯呑になみなみと注がれた熱い緑茶を一口飲めば身体がほんのりと温まる気がした。
残りのお茶は全部水筒に詰めて蓋をする。
幾度も繰り返した朝の手続きをこなしてから部屋を出た。
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製鉄所の高炉には神様が潜んでいる、というのは製鉄所のある地域でまことしやかに囁かれている噂の一つだ。
実際、事務所の神棚には日本神話の最高神・アマテラスノミコトと製鉄と鍛冶を司るアメノマヒトツノカミ及びカナヤコカミと一緒にその高炉や製鉄所の付喪神も祭られているという。
数人の職員が自分に目礼をしてくるのを返しながら、神棚から煙草の箱を一つ貰っていく。
若い職員が不審そうにこちらを見てくるのでニッと笑ってごまかしておく。後で誰かが説明しておいてくれるだろう。
(ぼちぼち視えだした奴らが不審がる時期じゃし、言うといたほうがいいか)
自分から神様ですと言っても今どきの若者らは信じてはくれまい。
ましてこの新日鉄住金釜石製鉄所を己の神域とする付喪神、それが自分だなどという突飛な事実はなおさら。
喫煙スペースの壁に寄りかかりながらぼんやりと考えごとをしていれば、馴染みの職員がふらりとやってくる。
「どうも」
「おう。あの若いの視えるみたいじゃな」
「みたいですね。さっきの訝しみ具合凄かったですもんね」
「ぼちぼち若いもんに製鉄所の付喪神はほんとにいるぞー言うて驚かせる時期か」
「だと思います。今夜にでも準備しますよ」
「おう、にしても事務方の子で一か月かそこらで視えるようになったんは早い方じゃな」
「そう言う適性がある子なんでしょ、俺みたいに」
付喪神や幽霊や人魂は視える視えないに個人差がある。
そのなかでも視えやすい部類の人間を≪巫女≫と呼ぶようになったのはいつの頃だったか。
この職員もそんな≪巫女≫の一人であった。
「まあ、相変わらず最速は破られんけどな」
呑み終えた煙草を灰皿に押し付けて喫煙スペースの外に出るとまだ海霧のひやりとした冷たさが残っていた。
次へ釜石さんの過去話。たぶん10話ぐらいの長い話になる予定です。