たま菊と恋仲になったのは夏の事だった。
姐さんから頼まれたお使いの帰り道だというたま菊とぼんやり街中を歩いていた時だった。
「凛々千代さま、」
「うん?」
たま菊がきゅと着流しの袖をつかんでくる。
それがなんとなく『このまま帰りたくない』というたま菊の意思表示のような気がして、ぽつりと「離れとぉ無いな」と呟いた。
たま菊ははいと囁くような声で返事をしてきた。
(ああ、この娘は同じ気持ちなのだ!)
喜びは胸の奥にしまい込んで平静のふりをして声をかけた。
「店の前まで送ろう、今日は人が多いからよお捕まっておけよ」
「はい、凛々千代さま。」
たま菊とはそれ以降何度も逢瀬を重ねた。
寝静まった真夜中に店を抜け出しては海や神社で待ち合わせ、他愛もない時間を過ごした。
日々少女から女へと化けていくさまを見ながら『凛々千代様』と呼ぶその声と姿をいつくしんだ。
不穏な世間の流れなど何も恐ろしくは無かった。
ただただ幸福な時間だけが流れてゆき、夏が終わり冬が終わり、気づくと1年が過ぎていた。
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1932年、冬。
八幡から分厚い手紙が届いた。
内容の半分は『来年施行される日鐵法の準備に巻き込まれて忙しい』という恨み節で、苦笑いをこぼしながらも本格的に国によって製鐵合同が推し進められていくのだということを痛感する。
今日は少しばかり長めの返事を書こうか、と封筒と無地の紙を取り出す。
『八幡へ。
釜石の地にもついに初雪が降りだし本格的な冬支度の季節が来ています、雪の降らない九州がこの時ばかりはうらやましい。そんな季節です。
さて、お前さんの手紙では製鐵合同の新法の準備に巻き込まれたとかで相当苦労しているのだと伝わります。
こちらも元官営の身の上、そのうち巻き込まれるだろうと思うので頑張れとしか言いようがありません。とりあえず泣くな。』
ふと筆が止まる。
官営として国を背負ってきた八幡にとって自分が民営になるということは八幡の矜持にも関わる事であり、あまり下手な慰めはしない方が良いような気がした。
結局思いついたのは『製鉄の都・釜石と素晴らしい外国人技術者に育てられた八幡の鉄は世界に誇れるものになると確信している』という言葉だった。
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