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コーギーとお昼寝

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拝啓、金子直吉様7


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拝啓、金子直吉さま6

1910年(明治42年)、私は依岡と共に呉を訪れることになった。
目的は呉の海軍工廠。そこに自社の鉄を売る事が出来まいか、という野望であった。
以前から金子直吉には海軍の大物とのつながりがあり、その縁で呉工廠が神戸製鋼所に興味を抱いた。
当時の日本軍は国内の製鉄業にとっては大口の顧客であったので、海軍を相手に商売ができれば経営は安定する。
それが田宮の言うところの『私を生かすための秘策』だった。
「あれが呉?」
「ええ、いつも見てる海とは違うでしょう?」
「そうだわ、黒くて大きな船がたくさん浮かんでる」
「あれは全部日本海軍の軍艦です。あれをうちの鉄で作ってもらえないか、頼みに行くんですよ」
「依岡ならきっとすぐ頷かせちゃうでしょうね」
私があまりに無邪気にそう笑うので依岡は困ったように笑っていた。
「そのためにもお嬢さんの協力が要るんです、出来ますね?」
「もちろんよ」

****

呉の一流旅館で開かれた宴会は、海軍の大物が多く居並ぶ盛大なものであった。
丁重に客人をもてなす依岡を手伝いながら私はこの場を成功させねばなるまいと意気込んでいた。
その片隅でふっとこちらを見る人がいた。
海軍中将の制服に身を包みながらも、肩章はどの階級のものでもない独特のものだ。
ごつごつとした体つきに男らしい精悍な顔つきをした、いかにも若い軍人さんという見栄えだ。
「神戸製鋼所、」
「はい」
「ああそんなに緊張しないで、膝を崩して楽にして。あとのことは依岡さんに任せて少し話をしよう」
「じゃあ、失礼します」
足を延ばして座布団の上に座る。
その真っ青な海の青をした瞳で、この人は自分と同じ神の領域にあるものだと悟った。
「……呉海軍工廠、さん?」
「工廠さん、で構わないよ。どうせこの場に他の海軍工廠はいないしね」
「はい。じゃあ、工廠さん」
私がそう呼ぶと嬉しそうにほほ笑んだ。
そうして彼と私は私が眠りにつくまで他愛もない話をした。



神戸製鋼所が、海軍からの受注を受けるのはこの少し後の事であった。

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拝啓、金子直吉様5

「お嬢さん、話があります」
ある昼下がり、田宮が私の元にやって来た。
「どうしたの?」
「……ここを潰すことになるかもしれません」
苦渋の言葉を漏らす田宮に、ああやはりそうかと思っていた。
私の命は細い一本の糸で繋げられたようなものであることはもう既に分かっていたことで、何度となく出銑に失敗していたことも踏まえれば仕方のない結論であった。
この出銑に関しては必死に尽力した技術者や職員の奮戦があったが、どちらにせよ経営が厳しい事には変わりがない。
「いちおう金子さんとこの製鉄所を門司へ移転するかという話があるのですが」
「九州へ?」
「はい、」
「……構わないわ。門司でも下関でも何処でも。あなたが私のためを思ってそう言うのならば、どこにだって行く」
「お嬢さん」
「今の私に死ぬことより恐ろしい事は、もうなにもないわ」
私がそう告げると、田宮は驚いたような顔をした。
10つくらいの見た目の少女が吐くにはあまりに重苦しいその言葉は、私の覚悟であり偽りのない本心だった。
「……いま門司に土地を探しています、見つかったら一番にお嬢さんにお伝えします」

しかし、世の中とは不思議なもので事態は突如急転する。
「三井と三菱の傘下に入る?」」
「今朝がた金子さんから言われたのですが、三井銀行が三菱と共同でこの製鉄所を買いたいと」
「本当に?」
「はい、まだ返事待ちではありますが……」
「それでも三井と三菱の傘下なら間違いなく今以上に安定する!」
「田宮さんもお嬢さんも朝から何なさってるんですか?」
「聞いて依岡!私、もしかしたら三井三菱傘下に入って強大な経営基盤を得られるかもしれない!」
「本当に?」
「私、死ななくてもいいのかも知れない!」
依岡も田宮も私が生き永らえるならどこでもいいと思っていた。
無論金子直吉への恩はあるけれど、幼い少女の死を見たくないという普遍的な人間の感情で彼らは私の生を願っていた。
ただ、この話は三井側からの返事が途切れたことによって水泡に帰すのだが。

****

三井三菱による買収話が立ち消えとなった後、金子直吉による資金援助を受けて神戸製鋼所は新たな設備投資を行うことになった。
「でも、このお金は金子のおじさまが大里精糖所の売却で得たお金なのよね?」
「そうですが」
「お家さんや金子のおじさまは私が三井に行けなくて気落ちしていたんじゃないかしら」
「一つの失敗でくよくよしていられませんよ、それにお嬢さんの作る鉄は日本中が必要としているのにそんな簡単に潰したりできません」
田宮は私を慰めるようにそう告げた。


「それに今、依岡君が金子さんとあなたを生かすための策を練ってるのです」

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拝啓、金子直吉様4

神戸製鋼所という新しい名前と一緒に与えられたものがある。
田宮嘉右衛門という新しい支配人であった。
伊予訛りの落ち着いた語り口と誠実に働く精神を兼ね備えたその男を、金子直吉は私に与えたのだ。
技術を鍛え、幼い娘の姿をした私を敬愛し、経営者として奔走した。
それから5年後、金子直吉という人は私にもう一人の贈りものをした。
1909年(明治42年)10月のことだ。
会わせたい人がいるという連絡を受けて田宮と共に訪ねた店の奥に、その男はいた。
「紹介しよう神戸製鋼所、彼が依岡省輔だ」
「……何故、この人と私を?」
「この男はきみの力になると思ったからだ」
依岡省輔という人物を象徴する有名なエピソードがある。
私と出会う少し前、二人が初めて出会った時のことだ。
『おまんの最も得意とするところは何ぜよ』と問われたときの彼の答えがその後の彼の仕事を表している。

『私は別段優れたものは持っていません。強いていえば、体が大きいから人並み以上に大食いすることと、知事や将軍を説き伏せることくらい』

実際、依岡の弁舌はおそろしく優れたもので、ほとんどの人間は彼ほどの弁舌を持っていなかった。
田宮などは「この製鋼所でお嬢さん(私の事だ)を一番上手に宥められるのはきっと依岡君だ」というほど、私はいつも幼い子供らしく癇癪など起すとすぐ依岡が呼ばれるほどだった。
逆に依岡は「田宮さんはお嬢さんのバトラーのようです」と言っていた。
人間世界での振る舞いを私に教え、常に私の面倒を見てくれたのは田宮であった。
仕事におけるあれこれから日々の生活に至るまで幼かった私と共に在り続けた。
私は、二人の男と共にこの『神戸製鋼所』を一途に大きくしていった。

****

そう言えば、八幡や釜石と会ったのがちょうどこの頃だった。
本来神の領域にあるものは神無月に出雲へ来なければならなかったのだが、人間世界での暮らしの長い私はそれをほとんどせずに育っていた。
そもそも西洋由来の技術を元にしたものについた私や八幡のような存在が日本の付喪神であるのかどうかで出雲の方でも揉めたなどと聞くので、向こうから呼ばれることもなかったようだ。
「神戸製鋼所、」
「はい?」
そこにいたのは紺の絣に長羽織を着た青年だった。
「わしは釜石鉱山田中製鉄所。お前さんと同類のもんじゃ。……ちぃっと来てくれんか?」
「私で良ければ」
そうしてそのまま私は出雲まで連れられ、八幡や室蘭と対面を果たした。
ただ、田宮は散歩に出掛けたままいつまで経っても帰ってこないと心配していたら『今出雲にいます』と電報が届いて製鋼所内がてんやわんやになったという。

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拝啓、金子直吉さま3

そもそも、鈴木商店は小林製鋼所を買う意思はなかったという。
西宮紡績の買収に失敗して心ここにあらずの状態だった金子直吉は、経営不振に陥った小林製鋼所の買収話を持ち掛けられて深く考えずにそのまま頷いてしまったのだという。
それを知ったのはだいぶ後になってからの事だったが、それを感じることはほとんどなく育てられた。
「台湾で手に入れた絹のワンピースなんだが、着てみるかい?」
私が連れてこられて3日目の朝、その人は私に鮮やかな赤いワンピースを差し出してくる。
南方の絹と染料で染められた鮮やかな色彩のそれは私にはまばゆく見えた。
「出会った時に着ていた着物、だいぶ汚れて来ただろう?」
「いいんですか?」
「もちろん、このヒールはお家さんから。ワンピースを着るなら靴も西洋のものがよかろうって」
金子直吉という人は欲の薄い人であったので、こうして私にものをくれることは何度かあった。
私はその分け与えられた衣類の鮮やかな色彩を気に入って大切に大切に着ようと心に決めていた。

***

それから一週間後、お家さんは私を突然部屋に呼んだ。
台湾土産だという黒糖を私に一つ手渡してきて、私はそれを舐めてみる。
(……なんだか、不思議な甘さ)
どこか癖のあるのに棘のない優しい甘さがする。
与えられた黒糖の甘さを存分に味わってから飲み込むと、お家さんがふいに話を切り出した。
「あなたに新しい名前を渡そうと思ってね」
「はい?」
「あなたはもううちの子なのだし、これから新しい道を行くのだから新しい名を持つべきだと思ったのよ」
(人に買われるという事は、こういう事なのか)
それは生みの父の名を捨てよという宣言だった。
一度は死ぬことを覚悟した身だ、名前の一つぐらい仕方のない事だ。
「……はい」
するとお家さんが折りたたまれた紙を渡してくる。
「これが、あなたの新しい名前」
ひらり、と紙を開く。


「神戸製鋼所……」

「そう、神戸製鋼所。あなたの新しい名前」
その人はふっと微笑みながらそう告げた。


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