1968年夏
上から届いた手紙にちっと舌打ちが漏らした。
「八幡、行儀が悪いぞ」
「公正取引委員会から連絡が来たんで見せてもらったんですけど、合併は認めないって」
引き渡された書類を釜石に手渡すと、ふうと小さくため息を履いて私的独占かあと呟いた。
「日鐵の頃はうちで国内の銑鉄の8割だったか?普通に供給したりしとったのになあ」
戦前、国内では銑鉄のほとんどを日鐵が生産してそれらを国内の鉄鋼メーカーに販売していた。
しかしそれは現在のルールでは私的独占になってしまい、それが合併を阻んでいたのである。
「ほんとですよね」
「ええっと、独禁法に引っかかるって言うのはどれだったか……」
「鉄道用レール・食缶用ブリキ・鋳物銑・シートパイル(鋼矢板)、電磁鋼板、冷延薄板、厚板……あとまあ諸々含めて確か9品目ですね」
「思ったより多いな。鉄道用レールはまあうちとお前のとこでしか作っとらんから分かるが、ブリキは誰か作ってたか?」
「ブリキはうちで原版作ってメーカーに供給してますから」
「そういうことか、めんどくさいなあ」
「ホントですよ」
ああまったく面倒だ。
しかしこの合併は全社、ひいてはみなの悲願である。反対も無理も多すぎることは分かっていた。
あらゆる困難を薙ぎ払ってでも一緒になるつもりでいた以上諦める訳には行かない。
「とにかく独禁法に触れなきゃいいんです、それ用の方策を練りましょう」
***
年が明けて、1969年3月のうららかな春の日のことであった。
電話越しに釜石は我が耳を疑うとでもいうような口ぶりで呟いた。
『……レール製造の別会社案?!』
「どうも公取委がいまの案を気に食わないらしくてですね、そういう話が出てるんです」
『一応別会社にしておけば独禁法に引っかからないってことか』
「それでなくとも設備の売却や破棄は既定路線ですし……私は嫌ですよ、あなたと別れるのは」
『決めるのは永山さん達だしなあ、あの人を信じよう』
あの人を信じようだなんてずいぶん軽い口ぶりで言うものだ。
電話切るぞ、と釜石が告げる。
「……あなたが死ぬのは嫌です、しんにってつにあなたがいないなんて」
零れ落ちるような台詞と共にぽとりと目から雫が落ちる。
『死なないための最大限の努力はするさ、だから泣くな』
「ないてませんよ」
―数日後―
ふらりと釜石がほうじ茶の匂いを漂わせて本社に足を運んできたとき、何を口にするのだろうかとおびえながらその口が開くのを待った。
「別会社案、無しになる目途がついた」
「……ほんとですか?!」
「ああ、扇島のところでうちの設備を引き取ってもらうことにした」
「よかった」
思わず涙腺が緩みそうになるのを釜石が笑いながら抱きとめた。
「まだまだ先は長いぞ?」
「分かってます」
私は、この人が絡むと涙腺がおかしくなる。
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