「北鹿島、お前を今度から鹿島臨海のところに送る事にした」
「・・・・・兄さんですか」
「ああ、あいつは顔見知りだろ」
そう言われた時、なんとなくため息をついた。
後に僕が「兄さん」と呼ぶ人は年下だったからだ。
鹿島臨海鉄道、遠き日の夢それはまだ僕が「北鹿島線」だった1978年のことだ。
『成田空港への燃料輸送ですか・・・』
『東京からの命令でな、日立港から運んだ燃料を常磐線やお前を使って鹿島港に届けて成田に運ぶ計画らしい』
成田空港建設反対運動、いわゆる「成田闘争」のくすぶりで燃料の襲撃が予想されたためこんな複雑なルートを用いることになったと鉄道公団さんは言った。
『ですけど僕は鹿島港まで届いてませんが』
『そこから先は鹿島臨海鉄道がいるだろ』
『まだ建設中じゃ?』
『もう出来てる、あいつからの許可は無理矢理取り付けた。』
それが僕と兄さんの出会いだった。
* *
『・・・・北鹿島か』
『ええ』
兄さんは僕より生まれたのは遅かったけれど、生まれてから着工までの中断期間が無かったせいか僕より大人びて見えた。
まあ多分水戸さんや鹿島港に展開する企業に厳しく育てられた部分が一番大きいと僕は思う。
『僕より年上に見える』
『そうだな』
この事実を少しばかり皮肉って僕が兄さんと呼び始めるのにはそう時間はかからなかった。
それに兄さんは人付き合いが苦手なだけで意外とまじめだった。
嫌だ嫌だと言いながらも路線を一般解放した。
そのうち僕はこの人は嫌いじゃないと思い始めた。
しばらくしてから成田闘争は静まり、この仕事も終わった。
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「うちで燻ってるよりましだろ」
「まあそうですけど、まさか第3セクターになるとは」
「セクターは嫌いか?」
笑いながら水戸さんがマックスコーヒーを手渡す。
一口だけ飲むとコーヒー牛乳みたいな甘さが口に広がる。
「まずい」
「厳しいな、まあこれで文句はねーよな」
そんな文句があるも何も決めるのは水戸さんと国鉄さんなのだ。
(文句もなにも無いでしょ)
「はい」
こうして僕と兄さんは兄弟になった。
おわり
ずいぶん開いてしまいましたが鹿島兄弟の出会いはここまでです。
実は資料の漁り方が雑だったせいで鹿島兄の民間へ路線解放の理由が羽田闘争だった事実を知らなかったとか言えない、言えないよ・・・・・・。
ちなみに手元の資料では「鹿島新線」となっていたのですがとりあえず「北鹿島線」で統一しました。