トイレ後の手洗いに浸かっている蛇口のわきに置いてあった石鹸に手を伸ばして気づく。
「あ、」
年の瀬に取り替えたばかりの薬用せっけんがもう親指ほどの大きさになっている。
ハンカチで手をぬぐってから備品倉庫から新しい石鹸を出しておくと、予備の石鹸の消耗の早さにため息が漏れた。
リーグの中断後は『冬までには終わるだろう』と言い聞かせていたものの、新型コロナウィルスの流行は未だ収まる気配を迎えないまま年を越してしまった。
(この調子だと開幕戦も怪しいな……)
協会は人徹底した対策の上での開催を発表したが、世間の反発のみならず倍々ゲームに増えていく感染者数を見て中止に変更される可能性もなくはない。
もし開幕延期となればオリンピックどころか23年のワールドカップにも影響が出かねない。
「シーウェイブス」
「釜石さん、どうかしましたか?」
ひょっこりと事務所に顔を出してきたのはマスク姿の釜石さんだった。
父であり自らの最大の応援者でもあるその人の手元には大きめの段ボールがひとつ。
「和歌山に頼んで蜜柑を送ってもらったからおすそ分けにな」
段ボールのヒモとテープを切り落とせば箱からはみかんの甘酸っぱい匂いがふわりと香る。
そういえばみかんなんて最近全く食べていなかったな、と思いながら一つ手に取れば小ぶりながらつややかでいい香りがした。
「選手や桜庭さんにも渡しといてくれるか?」
「あれ、事務所にGMいませんでした?」
「ひとに移す訳にもいかんじゃろ、わしとお前さんは移らんけどわしが原因で映ったらかなわんしな」
多分それがこの人なりの気遣いなのだろうと思う。
底抜けに人間に優しい人であることは自分がよく知っている。
「こっちはお前さんに、開幕戦見に行けそうもないから今日のうちに渡しておく」
そう言って戻っていった背中を見送ってからそろりと紙袋を開くと、紙マスクと消毒液のセットが入っていた。
それと一緒に出てきたのは地域の神社の必勝守り。
病禍のさなかにあっても闘う事をやめない事への祝福のようで、そのお守りを取り出すと絶対になくさないように財布につけておく。
どうか、今年こそはちゃんと最後のひと試合まで無事に迎えられますように。
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釜石親子。ひと試合がこんなにも尊いこと、きっとないよね。