1910年(明治42年)、私は依岡と共に呉を訪れることになった。
目的は呉の海軍工廠。そこに自社の鉄を売る事が出来まいか、という野望であった。
以前から金子直吉には海軍の大物とのつながりがあり、その縁で呉工廠が神戸製鋼所に興味を抱いた。
当時の日本軍は国内の製鉄業にとっては大口の顧客であったので、海軍を相手に商売ができれば経営は安定する。
それが田宮の言うところの『私を生かすための秘策』だった。
「あれが呉?」
「ええ、いつも見てる海とは違うでしょう?」
「そうだわ、黒くて大きな船がたくさん浮かんでる」
「あれは全部日本海軍の軍艦です。あれをうちの鉄で作ってもらえないか、頼みに行くんですよ」
「依岡ならきっとすぐ頷かせちゃうでしょうね」
私があまりに無邪気にそう笑うので依岡は困ったように笑っていた。
「そのためにもお嬢さんの協力が要るんです、出来ますね?」
「もちろんよ」
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呉の一流旅館で開かれた宴会は、海軍の大物が多く居並ぶ盛大なものであった。
丁重に客人をもてなす依岡を手伝いながら私はこの場を成功させねばなるまいと意気込んでいた。
その片隅でふっとこちらを見る人がいた。
海軍中将の制服に身を包みながらも、肩章はどの階級のものでもない独特のものだ。
ごつごつとした体つきに男らしい精悍な顔つきをした、いかにも若い軍人さんという見栄えだ。
「神戸製鋼所、」
「はい」
「ああそんなに緊張しないで、膝を崩して楽にして。あとのことは依岡さんに任せて少し話をしよう」
「じゃあ、失礼します」
足を延ばして座布団の上に座る。
その真っ青な海の青をした瞳で、この人は自分と同じ神の領域にあるものだと悟った。
「……呉海軍工廠、さん?」
「工廠さん、で構わないよ。どうせこの場に他の海軍工廠はいないしね」
「はい。じゃあ、工廠さん」
私がそう呼ぶと嬉しそうにほほ笑んだ。
そうして彼と私は私が眠りにつくまで他愛もない話をした。
神戸製鋼所が、海軍からの受注を受けるのはこの少し後の事であった。
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