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コーギーとお昼寝

市町村・鉄道・企業・スポーツチーム擬人化よみものサイト、オンラインブクマはご遠慮ください。

幸せになって欲しくて3

1992年には第一種鉄道事業者免許を取得、二年後には秋葉原での起工式が開かれた。
それはその起工式の日のこと。

幸せになって欲しくて

起工式には関係者が多く集まり、その内には接続する予定の私鉄路線も多くいた。
JRからは代表として水戸線さんがいた。
『新線は水戸線さん嫌い?』
『・・・・・・・・あの人は接続しないし、悪い人ではないから』
『何だかんだいって世話を焼いてくださるものね、常総さん経由だけど』
守谷で常総さんに会うたびにいつも水戸線さんから預かった煮物やら野菜やらを貰う。
それが現在でも響いているのか、JRでも水戸線さんはあまり嫌っている様子がない。
「あ、いたいた」
「・・・・・・どちらさんですか」
「オレ?ぶっちゃけ接続はないんだけど、上野から成田まで繋いでる京成本線でっす☆」
「接続ないのに来たんですか、わざわざ」
「なにその酔狂みたいな口ぶり~、まあ浅草で会うかも(ry
その言葉を遮ったのは鮮やかなまでの回し蹴りだった。
回し蹴りの張本人が誰か、それは言うまでもなく新線と接続する予定のあり京成と因縁のある彼しかいない。
「・・・・・ちっ、今日こそお前の息の根止めてやろうと思ったのにな。とゆうか帰れ」
「伊勢崎ちゃんよ、挨拶もなく回し蹴りは鬼じゃね?つか酷くね?!まずここ式典の場!」
「貴様にやる挨拶なんて不要だ、とゆうか船橋に帰れ」
『・・・・・・懐かしい』
『知ってるの?』
『私の元夫と、元婚約者というところかしらね』
『なにそのドロドロの構図』
ギャーギャーと騒ぎ合う声ではあっても、大好きな人たちの声を何十年ぶり書き聞いた。
それだけで泣けてしまう。
結局、東武野田線がやって来るまで喧嘩はしばらく続いた。

*              *

その後開業の延長が決まり、準備を進めていく中で過去を払拭するように新たな名前を与えられた。
『TX』
『・・・・・・まだその名前慣れないや』
『本当に、過去の記憶を捨てたいの?』
『うん』
完成検査が終了して開業後を一ヵ月後に控え、そんな折に[過去の記憶を預かって欲しい]といわれた。
『筑波、どうせならまっさらな状態で走り始めたいんだ』
私はその望みを聞くことにした。
幸せになって欲しい、それ以上の望みは何もない。






『そんなことがあったんだ』
『ええ』
私は彼に笑いかける。
まっさらな状態で走り始めて、8年の月日を経て私は彼に記憶を返した。
記憶と体の乖離はかなりの負担を背負うことになるため、身体的負担の軽減を目的として私は彼の元へと戻った。
『でもね、一つだけ変わらないことがあるわ』
『なに?』
『あなたが幸せであることよ』


おわり

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幸せになって欲しくて2

8月中旬の、残暑厳しい日だった。
「新線、これからよろしく頼むな」
「っても運営がJRなだけで母体は第三セクターになるから厳密にはうちに入るってのとは違うことになるんじゃないのか?」
「武蔵野」
常磐線・水戸線・水郡線の水戸支社路線と、接続路線となる総武線・山手線・京浜東北線・武蔵野線という国有鉄道路線の一通り集合した集まりの中に常磐新線はいた。
その中には私も良く知らない路線(特に当時開業から10年ほどしか経っていなかった武蔵野線)もいた。
「はい」
(接続路線との顔合わせまで・・・・・)
自分のときは接続路線との顔合わせは上野公園駅(現京成上野駅)開業日まで一度もなかった。
同じ会社に所属する接続路線となればそれよりもはるかに前に顔合わせを済ませる。
だからこのままJRとして彼は生きていくものだと、私はずっと思っていた。

幸せになって欲しくて

1989年
新たなフレーム案を読んだとき、新線は何も言わなかった。
『・・・・・・国は見捨てたんだ』
『新線、それでもまだつくば市や県がが見捨てていない、諦めちゃ『どうして!採算が取れないのはしょうがないとして、生み出したのは向こうの勝手なのに!主はどうして見捨てた!』
それは怒りだった。
第3セクターが母体だとしても運営がJRであることは疑いもしなかった。
そのほうが安定した経営も考えられ、運行知識の蓄積などのメリットも多い。
言葉こそ濁してあれど採算の都合で見捨てられた、いや見捨てようとしてることは認めざる得ない事実だった。

*          *

翌年には第三セクターとしての開業が確定し、「常磐新線」から「常磐線第3セクター」と変化して2000年の開業準備を目指していた。
その間にJRははっきりとこの事業から手を引くことを決め、91年には正式に通知された。
『ふざけてるよ、なら最初から作るなんて言い出さなければいいのに』
『それは極論よ、そもそも言い出したのは県じゃない』
『あの時わざわざ東京に呼び出して彼らに会う必要なんかなかった!
JRの一部として開業するから会う、そう思ったでしょう?』
そのとおりだ。
第3セクターを母体としJRが運営する新路線、私も彼もそうだと思い込んでいたのだ。
だから本来開業直前でも十分事足りる接続路線との顔合わせまで行われたのだと思っていた。
『・・・・・・筑波、いま色んなものがすごく憎い』
その気持ちを引きずりながらも開業への準備は刻々と進んでいた。






つづく

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幸せになって欲しくて1

『常磐新線』
そう名づけられた子供は、私と一心同体だった。
長く人々の記憶から消えていた東京からつくばを繋ぐ高速鉄道だった私と同じ存在意義だった、ただあの子の場合は同時に常磐線の複線としての意味も存在していた。
だからこそ常磐という名前を与えられ、誕生した。

幸せになって欲しくて

1978年
当時輸送限界を迎えつつあった常磐線は茨城交通湊線(現ひたちなか海浜鉄道)からの直通を切ってまで人々の輸送に精を出した。
この状況から県から第二常磐線構想が発表され、検討された。
都心から北千住を通過してつくば市内へ至る茨城県案と、秋葉原や扇橋などから新小岩を経由して我孫子へ至る千葉県案が提案された。
京葉線との競合や金銭面の問題、そして学園都市が建設当初から学園都市と都心を繋ぐ鉄道が建設される前提で作られていたという点などから茨城県案が決定した。
『・・・・・・・・君が、私なのね』
『お姉さんは?』
『筑波高速軌道よ、常磐新線』
こどもは私のなるはずだった姿だった。
都心から筑波市内を結ぶ鉄道路線というその姿は、私のずっとなるべき姿だった。
その姿が幻と消えないよう、消えないように私は彼を見守り始めた。

*           *

1985年、8月
運輸政策審議に通されたことで、開通が現実的になった頃。
『筑波、国鉄さんが東京に来て欲しいんだって』
『・・・・・・それはきっと、国鉄さんが合せたい人がいるのよ』
『常磐線?』
『おそらくそうでしょうね』
彼に会うということは、やはりこの子は常磐線の複線でもあるのだ。
無論、それ以外の意味もあるのだろうけれど一番そういう点が強く浮かんだ。




つづく

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笑えるくらいいまさらの話【パラレル】

*鹿島参宮さんには兄弟がいるという別設定によるパラレルです。
実際はこのような設定ではないのでパラレル扱いとなります。

*腐向けではないよ。


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はじまりのうた

出会いはある年の冬。
「という訳で紹介するけど、この3人が常総筑波鉄道ね」
「はじめまして、龍ヶ崎さん」
まだ4人全員が揃っていたころの始まりの話。

はじまりのうた

僕らが京成グループに加入してすぐ、僕らより一足先に京成グループへと入った常総達と出会った。
「ふたりともご近所さんだし、仲良くしなよ?」
「わかっています」
当時、会社は赤字でその時に救ってもらったのが京成さんだった。
それは常総も同じだった、だけれど常総はまた少し事情が違った。
「京成さん、俺ちょっと用事あるんで失礼しますね?」
「んー」

「京成さん、常総は忙しそうですね」
「あの子は東武の資本も貰い受けてるから」
東武資本と京成資本の両方を譲り受けている常総は両方の本社を渡り歩いていた。
「・・・・・・ところで、龍ヶ崎たちに会わせた理由わかってるよね?」
鹿島をちらりと見れば小さくうなずく。
「系列会社同士の競合は無益、ということですよね」
「正解、とりあえず2~3年ぐらいかけて話し合ってみてよ。」
うちもちょっと厳しいからさ、などと呟いてふらっとどこかへと去っていった。

*                 *

少し暖かくなった頃、話し合いをするため取手まで呼び出された。
「合理化のための併合、かぁ」
「どう思う?」
「将来的には視野に入れるべき、ってとこですかね。」
「だよねぇ」
「・・・・・・・でも、東武系列になるよりはいいかな」
「どうして?」
「いや、まあなんというか東武さんは出資理由がいまいち謎だから向こうの系列と併合してろくでもない目に合わされるよりも同じ京成系列のほうがある意味信頼できるというか・・・・ね」
「そうなんだ」
そして僕らはいずれひとつになるのだと、そう小さな約束をした。












常総にとってどうして東武の資本提供が受けられたのか謎だったらいいなっていう妄想です。
だって冷静に考えてみると東武の地盤は両毛で茨城周辺で東武がらみというと筑波高速度しか浮かんでこないというね。(フィルターかかってます)
まだこの頃は鬼怒川もいましたけど鬼怒川はいつか出てきます、いつか。

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