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コーギーとお昼寝

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走る男と追う女6

巨大化する千葉に並行し、水島の誕生、いくつかの工場の廃止、事業の譲渡と新事業の開始、葺合の足は止まることが無かった。
そして私もまたそれを追いかけてきた。
しかし、いつかはその足も緩んでいくのだ。

1978年(昭和53年)、冬。
「此花!どうしよう!」
「何の前触れもなくどうした……?」
「葺合にプロポーズされた!」
「は?」
とりあえず落ち着け、と私を机の前に座らせてお茶を淹れ始める。
ほかほかと湯気を立てる煎茶を一口呑めば心も少し落ち着いた、やっぱりコーヒー紅茶よりも緑茶の方が落ち着く気がする。
「とりあえずプロポーズって何さ」
「あ、いや、えっと……冷静に考えたら、あれプロポーズでも何でもなかったのかも」
「いや実際どうだったかは別にして何があったか説明してくれないと困るんだが」
「ええっと、葺合と私が来年春に統合されて阪神製造所になるからってこれを」
机の上に私は一つづつ渡されたものを並べていく。
古い万年筆、新品のカード入れ、川重兵庫の名前の刻まれた布のブックカバー、青いハンカチ、そして綺麗に磨かれた6ペンス銀貨。
「……サムシング・フォーだな」
「だよ、ね?」
唐突に電話のベルの音が響いて、ちょっと待ってと此花が席を立つ。
私が葺合に渡されたモノたちを見ながら考え込んでいるうちに此花が戻ってくる。
「夕方になったら迎えに来るってさ」
「えっ?」
「あと、それは間違いなく葺合からのプロポーズだよ」
私が固まっていると「祝杯でも開けようか?」と冗談交じりに聞いてくる。
「葺合のことずっと好きだったんだろう?」
「うん……きっと、生まれた時から」
此花は私の顔を驚いたように見つめてから、「じゃあ祝杯だ」と笑ってくる。
「でもお酒はダメ、迎えに来てくれるのに酔ってたら恥ずかしいから」
「はいはい、玉露でも開けるよ」
そうして此花が私の前に高級な玉露を差し出し、湯呑の玉露で乾杯をした。



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走る男と追う女5

当初、千葉での製鉄所建設は無謀な挑戦のように見られた。
しかしその無謀は恐ろしい事にすべて実現させてしまったのである。
1956年(昭和31年)12月19日
「金の目途がついた」
「えっ……」
「世界銀行から2000万ドルだ、必要によっては追加融資も受けられると思う」
実際にその後千葉への設備投資を目的に2度に分けて1400万ドルの追加融資を受け、川崎製鉄は国内製鉄業で一番世界銀行から金を借りた企業になった。
その金はすべて千葉のために使われたのである。

****

千葉製鉄所は広大な県有地に建設され、1953年(昭和28年)に稼働は既に始まっていたが高炉は一基のみしか稼働せず製鋼一貫体制は確立されていなかった。
「西宮!」
「久しぶり、千葉。元気にしてた?」
「うん、どうかした?」
「様子を見に来ただけ。ちょっと会わない間に背が伸びたね」
私達と同じワインレッドの瞳を輝かせ、生まれつきのふわりとした髪が東京湾の潮風に微かになびいた。
葺合が千葉をほとんど付きっきりで面倒を見ると宣言して関東に行った時は本当に大丈夫なのかと心配したものだったが、結局何とかしてしまったのだからすごい人だ。
「葺合よりもでっかくなるよ、俺!」
「そしたらうちで一番大きいことになるね」
「でしょ?」
さらりと髪を撫でてから再び辺りを見渡す。
この広大な埋め立て地は千葉県と千葉市から無償で借りたものだというのだから本当に驚いてしまう。
いったい何をどう言いくるめたのか不思議だと私はここに足を延ばすといつも不思議に思う。
「千葉、」
「うん?」
「葺合から聞いたんだけど、また新しい設備投資するんだって」
「ほんと?!」
「私が嘘をつく必要ないでしょ?」
千葉はその顔をキラキラと輝かせながら私の方を見るのだった。



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走る男と追う女4

それから葺合は製鋼一貫製鉄所の建造と言う夢に向かってまっしぐらに走り出した。
西山さんと共に候補地を巡った末に、二人はある結論を出した。
「ちょっといいか」
「はい?」
「製鋼一貫製鉄所を千葉に作る」
「……山口とかじゃなく?」
「千葉だ」
けろりとした声でそう述べた葺合の顔を覗き込むが、その目はいつも通りの深い赤だ。
葺合がそんな冗談を言うような相手でないことは分かっているが、随分と遠くに作るものだと驚いてしまう。
「でも、お金は」
「オヤジがなんとかする」
そしてまあこれが一つ騒動の始まりなのであった。

****

「ばっっっっかじゃないんですか?」
八幡さんはばっさりとそう切り捨てた。
声のトーンは努めて冷静であったけれど隠しきれない怒気を端々に滲ませながら答えていく。
「確かに鉄鋼の生産能力の増強は急務ですけど休止中の高炉を動かすことが先決です、それに製鉄所を増設するなら私か釜石が先になるのが妥当でしょうが」
「作る予定でもあるのか」
「そう言う意味じゃなくて!ほんとその淡々とした声腹立ちますね!」
「八幡、ちっと落ち着かんか」
ぺしんと頭を軽く叩いて釜石さんが待ったをかける。
こういう時八幡さんを止められるのは釜石さんだけだな、とつくづく思う。
「いやこれもう予定とかそう言う話じゃないですよ、工場にぺんぺん草しか生えませんよこれ」
「ぺんぺん草は薬草じゃぞ?煎じて飲むと熱が下がる」
「そう言えば釜石に昔飲まされましたねぺんぺん草のお茶、あれ効果あるんですか?」
「あるぞ?昔高任さんに飲まされてな」
なんか2人の話がどんどんずれてきている。
千葉に作る製鉄所の話をしに来たのだが、2人の会話がぺんぺん草の薬効の話にずれてきている。
「で、八幡。世界銀行に金を借りるときはどうしたらいいんだ?」
葺合が力技で二人の会話を引きずり戻す。
「はい?」
「いやだから、世界銀行から金を借りたいんだが?」
「……世界銀行に借りに行くと?」
「他所が貸す気ないからな」
馬鹿かこいつ、と言う目で八幡さんはじっと葺合の目を見ているのだった。



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走る男と追う女3

翌日。
真夏の日差しの下、大阪湾の見える公園で此花は水筒片手に私を待っていた。
「……葺合はそう言う方向か」
「本人はね」
「気持ちは分からんでもないさ」
此花は煙草をもみ消して深い溜息を吐く。
「ただでさえそっちは独立するしないで揉めてて、元々自前で高炉を持つのは西山さんと葺合の悲願だ。他所と一緒になってまで得るもんじゃないんだろう。
……それに極端なこと言えばそっちは知多に高炉増設すればいい話だしな」
此花はそう言って私を見た。
私達で唯一東海地方にいる知多は戦中に高炉を作る前提で設計され、終戦で計画は水泡に帰したが高炉を作ること自体不可能ではない。
「そっちだって、」
「うちはうちで色々あんのさ、あたしとしては出来れば広畑を獲得したい」
「一応葺合には伝えておくね。たばこ一本貰っていい?」
「どうぞ」
煙草を一本貰ってから、ついでに火も此花の煙草からお裾分けしてもらう。
「そういえば、広畑本人はいったいどこにいるんだろうね?」
「製鉄所のどっかで寝てんじゃないのか?休止中なら動けないだろ」
「ふうん……」
私はぼんやりと考える。
(広畑本人の意思は、いったいどこにあるのだろう?)
それは私か考えても仕方のない事ではあったけれど。

****

その年の10月、私達は再び八幡さんに呼ばれてあの会議室にいた。
とは言っても実際に行ったのは葺合で、予定よりも早く帰ってきた葺合は不機嫌そうにちゃぶ台の前に座って「水、」と私を呼んだ。
湯呑に入った水を一気に飲み干してからそれはそれは深い溜息を吐いた。
「……クソみたいな茶番に付き合わされた」
「茶番?」
「広畑は富士製鉄に入る事になった」
「えっ」
「だから途中で帰ってきた」
「怒られなかった?」
「此花は一緒に説得してくれって言ってたがめんどくさいから帰ってきた、昼飯は?」
「ごめん、まだ準備できてなくて」
「なら今からでいい、散歩してくるからその間に頼む」
そう言ってまたどこかへと出かけていく。
私は少しだけ悩ましい気分になりながら、お昼ご飯の魚を焼く準備を始めた。


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走る男と追う女2

1949年(昭和24年)7月、京都。
通産省の会議室に、神戸と此花と私の三人が八幡に向き合うように座っていた。
「今回の話の内容はいたって単純、広畑の件です」
当時日本最新鋭の機材が揃っていたがゆえに戦時賠償の対象となっていた広畑製鉄所が外されたのは去年の暮れのことだ。
釜石・室蘭は北日本製鐵(のちの富士製鉄)に、八幡は八幡製鉄に、と言うのはすでに確定しているなかで日鐵の製鉄所のうち広畑だけが宙ぶらりんになったことになる。
葺合と此花は目に見えて色めき立ち、神戸もまた広畑の獲得に動いていた。
「そうだと思ってましたわ、でなきゃわざわざ呼び出される理由が無いですもの」
「怒られるようなことはしたくないしね」
「まあ、そこはそうですけど」
「……川崎、住友、神戸。この三社での広畑の争奪戦については聞いてます」
八幡は呆れたように溜息を吐きながらも、そう言葉を継いだ。
「争奪戦なんてやな言い方だね」
「事実でしょう」
「これだから官営様はヤだねえ」
此花はぽつりとそう呟いてちらりと私の方を見た。
私は否定も肯定も出来ずに視線をそらした。
「これは通産省、ひいては国の考えですが、あなた方三人の合併を提案します」

「「「……は?」」」

三人の声が重なった。
「広畑を三人で面倒見ろって話ですよ」
「……そう来るとは思わなかったわ」
ぽつりと神戸さんが呟く。
此花も私も想定外の事態に顔を見合わせるばかりだ。
「上の意向ですから後は各々で考えといてください、あと葺合には『いくら独立するしないでごたついてるからって私の呼び出し無視して代理立てるようなことは今後控えるように』と」
八幡さんはそう言ってさっさと会議室を出て行くのを見送ってから、それぞれが深い溜息を吐いた。
それが上の意向なら仕方がない、と思いながら葺合がどう答えるのかが怖くて悩むのだった。

****

「……西宮、もう一度言ってくれ」
新聞をぐしゃりと握りつぶして葺合が言う。
「いやだから、八幡さんが『広畑を獲得するなら三社合同で』って」
呆れ切った視線で葺合は溜息を吐く。
新聞を綺麗に畳みなおす葺合に私は言葉をつづけた。
「でも、製鋼一貫製鉄所は西山さんの悲願でしょう?」
川崎造船の製鉄部門のトップであるその人は高炉のある製鉄所を作ることを長年の悲願とし、その悲願への執着を誰よりも理解して叶えたいと願っていたのは葺合だった。
そしてその願いを身近に見てきたのは他でもない私である。
「合同と合併はまったく違うものだ」
「つまり、それなら取りに行かないってこと?」
「それはオヤジの望みじゃないだろう」


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