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コーギーとお昼寝

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鹿島に落ちた光と影4

昭和50年
当時JSL(日本サッカーリーグ)2部所属だった住友金属工業蹴球団がこちらに本拠地を移す。
まだこの街は何も無い平野のような街で、工業や商業が流れ込み始めたばかりだった。
そして平成元年、東京である動きが出てきた。

鹿島に落ちた光と影

平成2年
「まあ、そうやろうなぁ」
「でしょ?」
僕たちの手元には住金が自ら出した「2000年ビジョン」というパンフレット。
このなかの『地域社会に貢献する住友金属』の言葉がきっかけだった。
まだ娯楽に乏しいこの街に対して住金自身もある危機感を覚えていた。
鹿島の街に魅力が無ければ、従業員から敬遠され、活気に乏しい職場になってしまう。
それが勤務効率への低下を招くのではないか、ということだ。
「だからプロサッカーチームを作るんでしょ?」
東京ではJSLのプロリーグ化の動きが出ており、ここに鹿島を本拠地とする住友金属のチームをプロチームにすることで地域の活性化へつなげようという動きが出ていた。
この動きには僕や神栖だけでなく、潮来や水戸も賛同していた。
だが、ひとつ問題があった。
「でもうちのチームそんな強ぉないしなぁ・・・・・」
「そこそこ強ければ問題ないでしょ」
「強くないうえにまだ、鹿島は発展途上地域やからな。集客力に問題あり、ってこないだ言われた。」
84年86年に優勝はは果たしたものの、この年住金は2部に降格していた。
そういう問題もあったのである。
「なら強くすればいいじゃない」
それはある方法で実現した。

*              *

平成3年。
「・・・・まあ間違ってはいないですねぇ」
「でしょ?」
「潮来、無理に鹿島に同調しなくていいからな」
住友金属は元ブラジル代表のジーコを獲得。
のちに日本サッカーに大きな変化をもたらす「日本サッカーの神様」をブラジルから呼び寄せたことで強くなったのは事実だ。
「鹿島が言うたもんなぁ、地域を活性化させたいって。大変やったわ・・・・・」
「どんな風にですか?」
「まず上が『ジーコを選手として雇えないならプロチームにさせない』とか何とか言われるし、本人も一度引退していい年やったし、むこう(ブラジル)で大臣やっとったしなぁ」
「まあ、でも来てくれたのはきっと神様の采配だよ」
これによりチームの成績の上がり、住金がプロチームになることが認められた。

「・・・・・で、話は変わるけどスタジアムどうするん?」
当時鹿島にはプロチームのスタジアムとして必要だと考えられていた15,000人という人数を収容可能なスタジアムが無かった。
元々小さい街である都合上、1万人も収容できるスタジアムなどあるわけが無い。
「あれ、水戸から聞いてないの?」
「いや今度公園にするとこスタジアムになるんか?」
「なるよ、水戸から予算も下りたし」
「ほうか」
満足そうに僕らは笑った。










                               おわり
ところどころ順序が怪しいですが調べても分からなかった部分なので気にしない方向で。
あと鹿島がご都合主義に見えるのは気のせい。
鹿島のその後は・・・・・・まあ、書かなくても分かるよね。

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鹿島に落ちた光と影3

何も無い更地が変化していく。
工場が作られ、人が集い、暮らすようになり、教育施設が作られていく。
「・・・・・・・僕が僕でなくなっていくみたい」
「これが新しいあんさんの姿や、住金の街・鹿島のな」
そして新しいものはもう一つ生まれていく。

鹿島に落ちた光と影

昭和45年1月
「「鹿島臨海鉄道?」」
「せや、ここいらを繋ぐ線路が欲しい言うたら国鉄と水戸が金出してくれることになってな、北鹿島から奥野谷浜までの鉄道をつくんねん。
せやから、そいつの面倒頼むわ。わいとあんたの息子みたいなもんやし」
「・・・・・・わいとあんたって」
色々言いたいことがあるらしい神栖は住金をじっと睨む。
僕としては同居人が増えるのはいいと思うし、地域のためになるのならばそれが一番いい。
「神栖、鹿島はわいの嫁さんやからな?」
「やだなぁ住金、僕は男だからそういうことはまずないよ?」
そういうとなんか複雑そうな面持ちで住金と神栖は僕を見た。
・・・・・何か変なこと言っただろうか。
「まあええわ、それともう一つ。大阪にわいが所有っちゅーか作ったサッカーチームがあるんやけど、そいつが鹿島に本拠地移す話があるんや。どない思う?」
「いいんじゃない?」

*             *

昭和45年11月12日
「・・・・・・君が鹿島臨海?」
こくり、と青年が頷いた。
「ちゅー訳で、こいつの面倒頼むわ。厳しくしつけたさかい、嫁さんは気ぃ抜けるやろ?」
「だから僕はお嫁さんになれないって、とりあえずよろしくね?」
この日、鹿島臨海鉄道が貨物として走り出した。









                 つづく
この話は本格的に住金→鹿島になりました。
後悔なんて・・・・・・してないよ。史実ねたとか気にしないよ。

あと私の中では大阪の関西弁=俺様攻めなのはなんでだろう。絶対ガンナーズのあの人のせいだと思うけど。

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鹿島に落ちた光と影2

昭和42年、住友金属が鹿島に製鉄所を作ることを決定。
その年の内に社内に設置準備室が作られる。
「・・・・・・なんもないな」
「何も無いから開発地区に選ばれた、そういうことに過ぎません」
「なぁ、わいが一つ約束ししたる」
腰を落としや、と僕にかがむよう言うと宣言した。


「わいがお前を作り変えたる、ついて来い」

鹿島に落ちた光と影

鹿島臨海工業地帯に工場を置く企業が集い、話し合うことになったとき住金は当然のように鹿島市内への工場設置を決めた。
「しっかし・・・・・」
「猫も人間と同じように話し合うんだね」
「当たり前でしょう、私たちとて企業の一部。決めるのは人間ですが私たちとて情報は金ですから」
三菱石油化学が厳しく突っ込みつつ、僕のひざに乗ろうとする。
「三菱の成金にこいつのひざはやらん!わいのや」
「何を言いますか住友の貧乏人が、私とて国家の一部。何処に座ろうと私の自由ですよ」
「しゃらくさい、こいつはわいのや」
「三菱、住友。」

「「鮎川のガキは黙ってろ」」

諫めるような日製(日立化学の代理だ)の声をばっさり切り捨てると、僕は三菱を神栖のひざに乗せた。
どうやら誰かのひざに乗りたかっただけらしい三菱は猫饅頭になって神栖のひざに落ち着いた。
「日製、話し合いは終わったの?」
「一通りな、住金の希望通り製鉄所は全て鹿島市内に建設される。」
「ほんならええわ」
思い通りの結果に満足したように呟く住金に日製が尋ねた。
「・・・・・・・そんなに鹿島が気に入ったか」
「当たり前やろ『若松の浜(鹿島)の鐵(まがね)を採りて剣を造りき』古代製鉄の中心やしな。
それにここの神さんはうちの上司さんの味方やしな」
「くじ引きで工場を作ると決めたのは本当だったのか」
「ま、半分くらい上も腹据えかねてたらしいしな。くじ引きで決めるときもあるやん」
その言葉に出会いのときに待っていたのは上司だったのかと一人納得した。

*           *

昭和43年鹿島製鉄所開設、翌年鹿島港が完成する。
開発の波で何も無かった街に私立中高一貫校・清真学園や街の開発が勢いよく進められた。
ある人は県に土地を手放し、ある人は開発に携わった。
「鹿島」
「うん?」
「工業地帯の半分以上うちにつれこんで悪かったな」
「・・・・・・別にいいって。神栖は豊かになってどうするのさ」
「波崎を娶る、それ以外にやる事があるかよ」
はっきりと展望を示す神栖をどこか羨ましく、そして遠くなってしまったような思いで見守っていた。












つづく
昨日の夜調べたことを参考にこの話の展開を考えていたら「つまり住金×鹿島ですねわかります」という結論に至ったので、こうなりました。
微妙に俺様攻めを目指したのが住金。そもそも鹿島は単体萌えを目指してたのに何故こうなった。

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鹿島に落ちた光と影1

昭和30年代。
陸の孤島とさげすまれ、近所には何にも無かった頃の鹿島のお話。
「・・・・・・平和だね」
木の葉の隙間から太陽が零れ、神の懐を暖める。
「鹿島!」
「神栖、どうしたのさ」
忙しなくこちらに駆け寄ってきた隣人・神栖町(当時)が告げたのは奇妙な言葉だった。
「水戸がうちの開発やるって!」

昭和35年4月 茨城県「鹿島灘沿岸地域総合開発の構想」作成
それがこの門前町に降り注ぐ光と影の始まり。

鹿島に落ちた光と影

鹿島灘周辺は古来から利根川と霞ヶ浦と海に挟まれて交通の利に乏しく、農業に適さない砂丘地帯だったため半農半漁で人々は生きてきた。
ところが海と湖に挟まれることで工業用水を集めやすく、東京から100キロ圏内という工業に適した地域だったことからこの計画が誕生した。
投資効果の高い土地として国が東三河・東駿河などとともに『工業整備特別地域』なんて指定まで貰った。
「まさか国家プロジェクトの一部になるとはなぁ・・・・・・」
「僕個人としてはどうでもいいけどね」
「なんでだよ」
「食うに困らないから」
「鹿島って欲無いよな」
これで神栖の町が人口増に転じてくれればな、と神栖が呟く。
開発スローガンである『貧困からの解放』という言葉は喜ばしいものではあるけれど、これが良きに転ずるかどうかが分からないだけだ。
「神の懐の町だからね」

*        *

昭和41年
神宮の出入り口の前に一匹の猫が鎮座していた。
捨て猫にしてはけづやのよい茶色の猫は、じっとこちらを見やっていた。
「おい」
「・・・・・猫が喋った」
「自分が鹿島やな?茨城県鹿島市」
「そう、だけど」
「わいは住友金属や」
日本の財閥の一つである住友財閥の流れを受け継ぐ金属加工会社の名前を名乗るその猫を、ただ見やるだけだった。














                       つづく
鹿島が現在のような住金の街になるまでのお話。
なんか無性に鹿行書きたかったんですよね、ふっしぎー。
あと神栖はここでだいぶ街が変化していくんですが反映されるといいな。

日立もそうですが、会社によって街そのものの地域的性格の変化が見られる例は多いですよね。

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日立鉱山、いつかの記憶3

日立製作所として独立するその日、一匹の自分によく似た黒猫が現れた。
そいつは自分にとてもよく似た背格好の目の青い猫だった。
『お前、名は?』
『・・・・・久原鉱業所』
『我輩は日立鉱山、今日からは日立製作所だ』
こいつが自分の後を継ぐ猫なのかと、一息をつくと同じタイミングでこいつもため息を漏らした。
『兄弟か』
『そうなるな』
同じ黒い毛並みを持った兄弟は後に、JXホールディングスと名乗る事になる。

日立鉱山、いつかの記憶

1918年、東京へ引っ越す事が決まった。
『これでお前も立派な一企業だなぁ』
にゃぁと答えると、車に乗っけられた。
酷く揺れる中で懐かしい日立の海が見え、この海としばしの別れかと覚悟した。

*             *

東京に引っ越した後も、工場には毎日顔を出した。
工場の男たちは適度に可愛がり、時に嫌いながらも新しいものを作り出していった。
1922年2月、国鉄の工場から帰った小平は言い出した。
『日製、電車を1から作るんだ。よく見ておけよ?』
後に知ったことだが、このとき役所からの注文を受けていなかったが勝手に設計していたのだと言う。
楽しそうに紙に線を引く姿にどこか子どものようだと思ったことを覚えている。
2年後の1924年、電車は完成しのちに国鉄を走った。
そして意気揚々と輸出用扇風機や冷蔵庫などを作る姿に一種の高揚感を覚えていった。

*              *

この頃、日立も一つの変化を迎えていた。
『日製』
『・・・・・日立、随分変わったな』
『日製と鉱業の影響だと思う、服装的にはつなぎって楽だしね』
日立製作所助川工場、久原鉱業という二つの工業所に挟まれる形で日立はだんだんと巨大化していった。
隣村である助川とは後に合併するが、もう一つ新しいものが生まれた。
『そうだ、常北とまだ会ってないよね』
『常北電気鉄道、か』
1927年、常北大田―鮎川を繋ぐ鉄道会社が成立する。
それが常北電気鉄道である。
『呼びに行く?』
『頼む』
常北との出会いはまた別の影響をもたらすが、それはまた別の話。









                                    おわり






常北大好きなのは私だorz
日立が今の姿になるまではざっとこういう流れですよーというはなし。
電車云々はついでに触れて起きたかったんです、はい。

そうだ、JX書き足さないと。

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