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コーギーとお昼寝

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拝啓、金子直吉様4

神戸製鋼所という新しい名前と一緒に与えられたものがある。
田宮嘉右衛門という新しい支配人であった。
伊予訛りの落ち着いた語り口と誠実に働く精神を兼ね備えたその男を、金子直吉は私に与えたのだ。
技術を鍛え、幼い娘の姿をした私を敬愛し、経営者として奔走した。
それから5年後、金子直吉という人は私にもう一人の贈りものをした。
1909年(明治42年)10月のことだ。
会わせたい人がいるという連絡を受けて田宮と共に訪ねた店の奥に、その男はいた。
「紹介しよう神戸製鋼所、彼が依岡省輔だ」
「……何故、この人と私を?」
「この男はきみの力になると思ったからだ」
依岡省輔という人物を象徴する有名なエピソードがある。
私と出会う少し前、二人が初めて出会った時のことだ。
『おまんの最も得意とするところは何ぜよ』と問われたときの彼の答えがその後の彼の仕事を表している。

『私は別段優れたものは持っていません。強いていえば、体が大きいから人並み以上に大食いすることと、知事や将軍を説き伏せることくらい』

実際、依岡の弁舌はおそろしく優れたもので、ほとんどの人間は彼ほどの弁舌を持っていなかった。
田宮などは「この製鋼所でお嬢さん(私の事だ)を一番上手に宥められるのはきっと依岡君だ」というほど、私はいつも幼い子供らしく癇癪など起すとすぐ依岡が呼ばれるほどだった。
逆に依岡は「田宮さんはお嬢さんのバトラーのようです」と言っていた。
人間世界での振る舞いを私に教え、常に私の面倒を見てくれたのは田宮であった。
仕事におけるあれこれから日々の生活に至るまで幼かった私と共に在り続けた。
私は、二人の男と共にこの『神戸製鋼所』を一途に大きくしていった。

****

そう言えば、八幡や釜石と会ったのがちょうどこの頃だった。
本来神の領域にあるものは神無月に出雲へ来なければならなかったのだが、人間世界での暮らしの長い私はそれをほとんどせずに育っていた。
そもそも西洋由来の技術を元にしたものについた私や八幡のような存在が日本の付喪神であるのかどうかで出雲の方でも揉めたなどと聞くので、向こうから呼ばれることもなかったようだ。
「神戸製鋼所、」
「はい?」
そこにいたのは紺の絣に長羽織を着た青年だった。
「わしは釜石鉱山田中製鉄所。お前さんと同類のもんじゃ。……ちぃっと来てくれんか?」
「私で良ければ」
そうしてそのまま私は出雲まで連れられ、八幡や室蘭と対面を果たした。
ただ、田宮は散歩に出掛けたままいつまで経っても帰ってこないと心配していたら『今出雲にいます』と電報が届いて製鋼所内がてんやわんやになったという。

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